歴史に名を残すDJ&プロデューサー
ダンスミュージックの歴史に名を残す偉大なDJとプロデューサーを紹介します。
ラリー・レヴァン(LARRY LEVAN)
1980年代のニューヨークの超人気クラブ「パラダイス・ガラージ」(Paradise Grage)を率いた伝説的DJ。 1976年にパラダイス・ガラージの共同オーナーになる。レジデントDJとして10年以上に渡り、ダンス音楽をリードした。 そのプレイには、多数の熱狂的なファンがつき、「ガラージ・ミュージック」という一つの音楽ジャンルを生んだ。
スピリチャルな空間を創造
DJとしてのプレイは、ターンテーブルとミキサーを自在に操りながら、ディスクに秘められたメッセージを最大限に引き出し、オーディエンスに語り掛けるようなドラマチックな演出を施しながらスピリチャルな空間を創造する、というものだった。(「クラブ・ミュージックの文化誌―ハウス誕生からレイヴ・カルチャーまで」)。
音響システム発展に寄与
レヴァンの功績により、 パラダイス・ガラージは、1970年代のディスコブームが去った後のクラブ/ディスコの典型的な成功モデルにもなった。 音響システムについても一流の技術と感性を持ち、パラダイス・ガラージに最先端の音響設備(サウンド・システム)を導入し、クラブ音楽の発展に寄与した。
DJ NORI、高橋透、HISAらに影響
ラリー・レヴァンは、日本のDJ界やクラブシーンにも多大な影響を与えた。 DJ NORIや高橋透、HISAら日本の著名DJたちはパラダイス・ガラージに通い、ラリー・レヴァンの手法から学んだとされる。
芝浦の「ゴールド」や東麻布の「エンドマックス」でもプレイ
芝浦の「ゴールド」や東麻布の「エンドマックス」でもプレイし、熱狂的な支持を得た。
38歳で逝去~死因は麻薬中毒に伴う心内膜炎?
1992年、38歳の若さで死去した(ニューヨークの病院にて)。 長年のパートナー(恋人)だったメル・シェレンの著書「パラダイス・ガラージの時代」によると、麻薬中毒とそれに起因する経済的な貧困に苦しんでおり、心内膜炎に伴う衰弱が死因だったという。
職業 | DJ、音楽プロデューサー、リミキサー |
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生まれ | 1954年7月20日 |
死去 | 1992年 |
出身 | ニューヨーク・ブルックリン |
ジャンル | ガレージ、クラブダンス、ハウス、ポストディスコ |
本名 | ローレンス・フィルポット |
参考資料 |
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トニー・ハンフリー(TONY HUMPHRIES)
ハウスミュージックのパイオニアの一人として知られるガラージ系リミキサー。 ニューヨークのラジオ局「キッスFM」のラジオDJとして活躍。 マスターミックス・ショウでの華麗かつエモーショナルなDJプレイでNJハウスを盛り上げた。
ザンジバーで「ジャージ・サウンド」を生む
また、 ニュージャージーのクラブ「ザンジバー」のクラブDJとしても、絶大な人気と影響力を誇った。 そのプレイは、「ジャージ・サウンド」と呼ばれるジャンルを生み出し、ニューヨークの「パラダイス・ガラージ」とともに、創世記のハウス・ミュージックを牽引した。
ソウルやゴスペルに根差した音
ソウル・ミュージックやゴスペルに根差したベーシックな音作りが特徴とされる。地元のレーベル、ムーヴィン等ではブラック・オリエントな彼らしいサウンドを全面に打ち出した好リミックスを多数手がける。
手掛けた作品は、アーバン・ソウル、マスオーダー、ジュリエット・ロバーツ、パーク・アベニュー、デジヤ、クッキー・ワトキンスなど。
ロンドンへ
1993年、ニュージャージーを離れ、英ロンドンの「ミニストリー・オブ・サウンド」のレジデントDJとなり、ロンドンに活動の拠点を移した。 以降、トップDJとして世界各国のクラブを訪問しながら活発な活動を続ける。
スムースなミックスで独自の世界へ
常に最新のサウンドを取り入れながらも、その長いキャリアによって培われた繊細なタッチとスムースなミックスで独自の世界へと引きずり込んでいくプレイには熱狂的な支持者が多い。
職業 | DJ、音楽プロデューサー |
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生まれ | 1957年 |
出身 | ニューヨーク・ブルックリン |
ジャンル | ハウス、ディスコ、ガラージ |
参考資料 |
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デヴィッド・マンキューソ(DAVID MANCUSO)
1960年代末にニューヨークの自宅で、招待された人だけが参加できる個人的なパーティーを毎週末行った。 後に「ロフト」(LOFT)として知られるようになるこのパーティは、 アンダーグラウンド文化の発祥地となり、 1970年代と80年代のクラブ(ディスコ)のモデルとなった。
フランキー・ナックルズ(FRNKIE KNUCKLES)
ハウス音楽の生みの親であり、「ゴッド・ファーザー」と呼ばれる。 当初はニューヨークで活動していたが、1977年、シカゴの「ウェアハウス」(Warehouse)のオープンに伴い、レギュラーDJ(レジデントDJ)として招かれる。 そこで、ナックルズは、ディスコ音楽やソウルミュージック、ヨーロッパ生まれのエレクトロダンス音楽をミックスする手法を生み出し、 絶大な人気を博した。
デヴィット・モラレス(DAVID MORALES)
「ロフト」や「サウンド・ファクトリー」のDJとして人気を博す。 末期のパラダイス・ガラージでDJを務め、C&Cの面々たちとの「Do It Properly」をヒットさせる。 フランキー・ナックルズ、富家哲(とみいえ・さとし)とともに、世界最高峰のリミキサー・チーム「デフミックス」(DEF MIX PRODUCTION)を創設した。